shio’s blog

静岡県出身、現在東京の大学に通う一人間のストーリーです。

高揚感と虚無感

 

可能性への高揚感と別れへの虚無感が入り混じる。

 

そんな季節。この日この頃。

 

たった21年の時間しかまだ生きていないけれど、大学に入ってからの3年間は今まで過ごしてきた時間の中で最も色付けされた期間であった。自分自身の言葉で表現できることがちょっと増えた。

 

人の人格は円グラフで表せるなんて思想があるらしい。円グラフの中身は関わっている人。一度かかわった人は自分の中の円グラフから一生消えることはないけれど、割合は常に流動的なんだ。その割合が常に人の性格を形成してる。

 

この3年間は、圧倒的に大学のポル科とjascのメンバーが大きかった。今の自分の人格はその二つに大きく左右されているのだと思う。

 

この2つは自分の3年間をひたすらに濃密にしてくれた。

温かな、目的を必要としない人間関係を僕にもたらしてくれたポル科は本当にかけがえのない存在。自分と全く異なる分野で自由奔放に動き回る面々は常に自分を突き動かすエネルギーであったと思うし、ポル科の誰かが挑戦しているのを見るとめちゃくちゃ応援したくなる。精神的にしんどい時、また戻ってきたくなる。そんな3年間じっくりと「醸成」された互いの関係が好き。

jascはひたすらに自分の限界と向き合うきっかけを与えてくれ、外の価値観と自分の中の価値観をぶつけまくった。そんな中揺さぶられまくる自分の感情をひたすらに言語化し、それに寄り添ってくれる人がいて、自分がいかに支えられているのかに気づき、「人が好き」という自分の空虚な言葉に実態をもたらした、そんな感じがする。

 

そんな2つがこの夏休みにまた動き出す。動き出してしまう。

 

ポル科の多くのメンバ―は留学に行き、jascはいよいよ来月1年間の準備を経て本番が始まる。

 

高まる可能性への高揚感と、別れへの虚無感。

 

留学に行く友人を見送る会があり、その後も語り合い、みんなが留学先でどんな体験をするのだろう、どんな変化を遂げるのだろうという可能性に心が躍り、一方で日常からすっぽりと抜けるその存在の大きさに戸惑い、別れの寂しさに心が揺さぶられる。そんなぐちゃぐちゃな感情を心に抱きながら、実行委員長として1年間メンバーと共に準備してきたjasc69が目の前に迫る。最高の実行委員と、最高の参加者が集まったと本当に思う。最後の最後まで入念に準備をし、みんなが参加してよかったと言える会議にして、自分に本当に沢山の学びを与えてくれたこの場を次に引き継ぎたい、70回にだけでなく、もっと長いスパンで。そんな思いが募る。

 

このやり場のない感覚を心に抱きながら物事を進めるってここまで大変なことなんだ。そんなちっぽけなことにまた気づく。

 

一か月後、一年後、みんなどうなっているのかなあ。

 

何がともあれ、留学行く人、頑張って!自分もjasc、がんばろーっと。

 

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いい時間

世界は信じられないくらい広くて、自分の人生じゃそのうちのほんの少ししか見ることできないんだろうなって思う。

 

それを焦りに、原動力にしてひたすら突き進む人もいれば、そうじゃない人もいる。自分は後者だったけど、最近前者になって、ほんの最近また後者になった。

 

見れる世界をじっくり味わいながらゆったりと生きていきたいかなー。

 

自分はどちらかと言うと知識から入るのが苦手で、本から言葉をもらってもうまく自分のものにならない。体験から自分で言葉を見つけてく方が好き。でもそれには時間がかかる。

 

ゆったりと、体験から言葉を見つけて、時々本から言葉をもらって。そんな感じに進んできたいなーって夜に本読みながら思った。

 

何も浮かばなかったからって、何もしてない訳ではなくて

何も言うことがないくらいに、何でもない時間が素敵で

 

夜に「いい時間」を聴いてたら耳に残ったフレーズ。

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夜散歩

たくさん支えられ、時々支えて、めんどくさいなーと思ってた人に気づいたら支えられてて気づいた時に嬉しくなったり、嫌いだなと思ってた人に以外と支えられてたり、嫌いだなーって人のことをいつのまにかいい奴だなって思えるようになってたり、仲良いなって思ってた人がいつのまにか疎遠になってたり、嫌いになってたり、別のことにチャレンジする度に、いつのまにか関わってた人の信頼失ってたり、思わぬところで信頼されてたり。

 

人一倍自分は繊細でいろんな感情が揺れ動いてしまうタイプだと思うけど、最近はそれもまあいっかってなってる。そんな自分が割と好きだったり。

 

でも夜に散歩すると結構考えが整理される。

頭も心もシンプルに。

 

シンプルにー。

 

今日は絶好の夜散歩日和。風めっちゃいい感じ。

深い青を連想させるような音楽聴きながら、ちょっといつもよりどうでもいいことを深く考えながら。

 

武蔵野の森公園は最高です。。

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不安?

携帯から。

 

上を向いて歩こうって曲あるけど、よくよく考えると人って歩いてる時前だって向いてない。だいたい歩く時って下とか横とか自分の周りにあるものしか見てない。

 

前向いて歩こうとすると下が見えなくなって怖くなって、また下向いて歩いてしまう。

 

でも、そんなことに気づいて意識的に前向いて数秒歩いてみると、結構スッキリした気持ちになったりする。

だから、時々意識的に前向いて歩いて、気持ちを整えたりすることがある。

 

でも時々そうしたってどうしようもなく不安な時だってある。それが今。

 

JASCの実行委員長やって1年近く経つけど、未だに初めてなことだらけだ。

明日から自分は愛媛に行って、いろんな交渉をしてくる。今までは誰かしらと行っていたけど今回は完全に1人。

本当に成功するのか?とかこれが成功しなかったら今年の会議はやばいかもしれないな、とかいろんな考えが交錯する。

 

1934年から今に至るまで続き、今年で69回目。過去には宮沢喜一とかキッシンジャーとか錚々たるアラムナイがいて、確固たる同窓会組織が成り立っていて。

常にどっかしらにのしかかる、プレッシャー。

 

自分が今していることは誰かしらに常に見られ、判断されている。さらには、のちに歴史を紡ぐ後輩JASCer にだって〜回は伝説だった、〜回はカスカスだった、なんていろんな評価がつけられる。

 

先輩からも後輩からも、また時々同期からも感じるプレッシャー。

 

それでいてその不安を人に打ち明けることもあんまりしない。大丈夫だよ!いけるいける!自分の口からでるのはそんなポジティブな言葉ばかり。

それは時に、「自分が今不安をシェアしたところでチームとして気持ちが高まるわけでもないし、だったらみんながポジティブな気持ちでいれたほうがいい」って頭で考えて言わないときと、人を前にした途端、本当に口から不安が出てこないときがある。いや、いけるっしょ?って心から思ってしまうとき。

 

だから何ってわけではないんだけど、最近あんまりこんな感情を抱かなかったから、抱いた時に書いてみた。

 

自分たちがやってることって、最終的には参加者のみんなが参加してよかった!って思わないと成功なんてない。だからこっから2ヶ月弱、成功するかしないかなんて全くわからないことに対して全力を注ぐことになる。

何が起こるかなんてわからない。みんながどう感じるなんてやってみないとわからない。けど、どうしたいかってことだけは自分の中に既に事実としてある。それを強く持って進むことしかできない。というか、進む。

 

色んな、膨大な不安は抱いているけど、心の底ではなんとなく確信してる。69は絶対に成功する。

 

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言語化

書きたいこといっぱいある。笑

前は書き留めたいなとか思ってたけどしてなくて、してなかったらしてないでそのままなんとなく消えていって、それに対する感情も特に湧かなくて。

でも今始めてしまったら、思いついた考えを書き留めておかずにはいられなくなった。そのまま消えていくのが怖いっていうまっさんの感覚が少しわかるようになった気がするな。

 

さっき夜を散歩しながら言語化について考えてみた。

感情を言葉で表現する面白さは省くとして、自分のもやもやした考えとか気持ちが言葉になっていくプロセスって色々あって面白い。

 

もちろん、自分が今まで生きてきた中で培ってきた自分の頭の中の辞書から何とかして言葉をひねり出してきて表現するのもすごい大事だし、なかなか骨の折れる作業であるけど、もっと不思議で面白いなと思うのは、言葉との偶然の出会い。

 

人が話していたり、著名人が演説で大々的に言っていたり、そんな時に耳に入ってくる言葉の意味が分からなくてもなんとなく耳に残るってことが時々ある。意味わかんないなあ、この人何言ってるんだ。みたいな。

そんななんとなく頭の片隅に残っている言葉に自分の経験が追いつく時がある。自分で今ある状況を表してみようとしたとき、あ!この状況ってあの人が言ってたあれか!みたいに一気に自分の中の「何か」が消化される。

 

もう一つは、自分がなんとなく抱いているけれど言葉にできないような思いを抱えていた時、人と話している中で、相手が使う言葉の中にそれをぴったり表してしまう言葉と出会うこと。相手に自分のもやもやを伝えているわけでもないのに、何となく話の流れでそんなトピックに流れ着いて、相手も同じことを思っていて、それをうまく言葉にしてる、なんてこともある。

 

前者の言語化には大きく二つの経験がある。

一つは、ジョブズの「点と点が繋がって線になる」というもの。当時高校生?だったと思うけど、その時は何言ってるのかさっぱりわからなかった。けど、大学に入っていろいろ考えるようになって、今までの経験が自分の考えにすべて影響しているように思えるようになった。浪人も、スぺ科じゃなくてポル科になったことも、バスケをなんとなく続けていたことも全部。それに気づいたとき、ものすごく人生が楽になった。肩に乗っていたとんでもなく重い荷物が一瞬にしてなくなった爽快感だった。

 

二つ目は、日米学生会議というものが続く意味が分からなくなったとき、(なんで日米でやる必要があるの?とかなんで学生会議なの?とか)ある飲み会で一人のおじさんに相談したとき、「日米学生会議で築かれる人間関係を『日米学生会議』って言葉に表せるくらいにしたらいいじゃん」って言われた。は?って。何言ってんのこの人?ってなりながらその時は、そうですね~なんて言ってたりした。

その意味に気づいたのは今年の5月。ポル科の友人と夜電話していて、ポル科について話してとき。ポル科最近遊ばなくなったよねー、とか離れ離れになったよねー。みたいなよくある話。でも自分はあんまりそんな感じに思ってなかったから、それを伝えていた。自分にとってポル科は「遊ぶ」とか「勉強する」とか「~を達成する」とかそんな目的なしにいれる居心地のいい場所。だから一人一人を何かでジャッジする必要もないし、一人一人と目的のない時間をひたすら過ごすことだってできる。

だから、「集まらなきゃ」とか「JASCで離れたから戻らなきゃ」みたいな焦燥感は特にない。むしろJASC69というコミュニティをポル科のような場にしたいと思ってここまでやってきてるんだから。壮大な目標。笑

この人間関係そのものを表すのが「ポル科」という言葉。もはや僕にとってポル科はポルトガル語を学ぶ東京外国語大学の学部の一つ、を表す言葉ではない。2015年に入学して、ボート大会とかタコパとか外語祭とか他愛もない喧嘩とか感情の揺れ動きとかそんないろんなものを経て醸成された28人の今現在の人間関係そのものを表す言葉であると思う。みたいな話をしたとき、2016年の10月に出会ったおじさんの言ってることがストンって消化された。

そんな運命的な言語化。笑

 

後者の言語化は、「セーフプレイス」ってやつ。

自分の運営する日米学生会議が、「目的に沿って人の一側面だけを見て、それで人そのものを判断してしまうような場で終わらせたくない。」って思いを抱いたときに、それを端的に表せる言葉がなかった。上の言葉では全然足りない。

そんな時、ある人と3時間ぐらい話していたとき、「セーフプレイス」という言葉をよく使っていた。その時は、めっちゃ使うし、自分のモットーなんじゃない?って相手側に伝えるぐらいの気持ちだったけど、それを後々考えると、自分が求めていたものにピッタリであることに気づいた。

そもそも、「目的に沿って人の一側面だけを見て、それで人そのものを判断してしまうような場で終わらせたくない。」って思ったのも、自分にとって日米学生会議という場が安全な場所でなかったから。ポル科がという場所が自分にとって安全で、それを言葉にできたのも日米学生会議との対比があったからだと思う。

JASCって運営するとなると、より良い会議にするって目的があって、そのためにしないといけないことが山ほどあって。それをみんなと分担してやっていくけど、だんだんとみんなその側面でだけメンバーをジャッジするようになっていってしまった気がして。というより、自分がそれで自分そのものを決めつけられているようなどん底に落ちたような感覚に陥って暗闇で一人もがいてるみたいな感覚に陥ってたし、やり場のない苦しみにまみれていた。unsafeだった。

でもひょっとしたらこれって自分だけじゃなくて、みんな思っているのかもしれない、思っていることを言葉にできないだけで、思いを共有できないだけでこんなにも場がセーフではなくなってしまうんだって気づいた時から、自分が実行委員長やってる場ぐらい、実行委員も参加者も全員「ここはセーフプレイスだ」って胸張って言えるような場にしたいって思うようになった。今すぐJASC解散しても、「JASC69」は永遠に残るような、そんな一人一人の人間の魅力にお互い惹きつけられてしまう場所。そんな感じにしたいなあ。

 

てな感じで思わぬ形で自分の思いが一言に表された出来事だった。

 

これからももっともっと思いを形に表せるような人間になりたいな。絵とか音楽とかほかの形の表現にもチャレンジしてみたいけど、まずは日本語、次にほかの国の言葉で自分の中の揺れ動く感情を表せるようになって、人に言葉を与えられる人間になりたい。

 

こんな思いがよくも悪くも第2言語の習得のハードルを上げている気も間違いなくするけど。がんばるしかないかあ。

 

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自分のしたいこと、大切なことを追い求めるということ

最近、何回も見てしまう動画がある。

 

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2016年、バスケインカレのハイライト動画。

 

高校の時、自分はそれなりに強い高校に所属していたと思う。

でも、今になってその時の自分の気持ちが分からなくなる。

全力でバスケの練習に打ち込むスタメンを見て、「何のためにそんな全力でやってるんだろう」、「そんなに練習したって、次に繋がるかどうかも分かんないのに。」そんなことを思うことはよくあった。

一方で、「バスケに全力で打ち込むなんて、馬鹿げてるやん。」みたいな発言をする人に対して、すごいイライラしたことも結構覚えてる。

 

なんで自分はその両方の気持ちを覚えたんだろう、とふと考えてみると、自分は自分でやってみたい、大切だと思うことに対して全力で向き合うことに憧れていたけれど、憧れていただけだったんだなって思う。

 

だから未だに不良が全力でインハイを目指すスポ根漫画とか、さっきあげたような全力でバスケに取り組んで涙したり、喜んだりする動画に憧れ、心を揺さぶられるんだろうなって思う。

 

今は昔に比べて、自分がしたいと思ったことに取り込む素晴らしさについて実感できているような気がする。それが例えバスケであろうと、ダンスであろうと、勉強であろうと、アカペラであろうと、アメフトであろうと、JASCであろうと。

 

今まで他人の価値観に沿って、意味がある意味がないとか、やっててバカバカしいとか肩書有利になるとか、そんなことを考えてしまったりしてしまったけど、そんな自分を脱するためにも、自分がこの大学生活が本当に鍵なのかなってなんとなく感じてる。

 

なんでそんなにJASCしてるの?とか、意識高いねとかそんな言葉掛けられること沢山あって、自分もなんでこんなことしてるんだろうとか、モチベが下がりかけたりするけど、この大学生活ぐらい自分がしてみたいことを誰にどう言われようとも貫いてみてもいいのかなとか思ったりしてます。

 

みんなに耳を傾けつつ、自分にも聞きながら頑張ろう、と思った。

 

と、今の気持ちを書き記してみて、自分の綺麗な部分ばっかり書いてるな、無意識に。なんても思う。笑

高校でバスケ部引退した時の気持ちをなんとなく徒然なるままに書いてみたいから書いてみるけど、

高校でインハイ出れるか出れないかってとこで負けたとき、めちゃくちゃ泣いたけど、いまだになんで泣いたのか分からない。これに勝ったら全国大会って時の浜松学院戦で負けた時ににも周りは泣いていたけど自分は泣けなくて、次の日の藤枝明誠戦でもギリギリ負けて、周りは泣いていたけど、俺は泣けなくて。でも引退した瞬間はなぜか泣けてきて。未だになんで泣いていたのか分かんないなーとか思う。

 

でも、本当にそんなの関係なく自分のしたいこと(バスケだったのかな?)に全力を注いでたスタメンの人たちは今でも尊敬してやまない。そのあとどんな道に進んでても、なんとなくうれしい気持ちになる気がする。

 

そんな感じー。

 

2016年大学バスケで特に好きだった二人の動画載せて終わります。

www.youtube.com

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自分をメタ認知するということ

ゼミで読んでいる『ハマータウンの野郎ども』。

 

イギリスの階級社会の中の学校で、なぜ労働者階級の人たちは再生産されてしまうのか。なぜ、数ある選択肢の中から労働者階級となる選択を自ら選び取っていってしまうのか。ということについて書かれている。

 

ゼミ中、先生が言った。

「なんで君たちはハーバード目指さないの?そこでMBA取ったら初任給2,000万とか4,000万とかそんな世界が待ってるのに。でも目指さんでしょ?なんでだと思う?」

 

なんでだろう。

今の現状に満足しているから?自分には無理だと無意識に思っているから?それとも自分には目指すべき道がある、そっちのほうが自分のやりたいことだって強く思っているからなのかな。

 

最近、同じような体験を何回もしている気がする。

何気なく使う、「人権」という言葉。無意識にそれが正しいことだと思って、それを盾にしてしまうことが往々にしてあるけれど、それって別に普遍的な考えじゃなくて。

自分が正しいと思ってたことが、実は正しくないんじゃないかって感がる時が多くて、その度にすごい自分のことが怖くなる。

人は考えるし、経験するし、それをする度に賢くなったと思う。自分また成長したなーって。でもそれはもしかしたら自分の中にめっちゃ大きな「井」を作り出しているだけかもしれない。(井の中の蛙の「井」。笑)

だから、学校って大切なんだ。今の時代、自分から求めようとすればどんな知識だって得ることができるかもしれないけど、それって自分の範疇の中でされてることが多くて、自分に興味がなかった分野とか、知らなかった分野とか、自分の「外」側から知識を突き付けてくれる環境ってすごいなって思う。

 

でも実はこのことについて前にも感じていて。授業受けるたびに「絶対何かを得てやるんだー!!!!!」ぐらいの気持ちを持って授業を受けていた時期があって。(大学2年前期?)でもモチベーションを失って流されてやっぱいいかなーとかなっちゃって。

 

大きく分けて、3つ道があると思う。唐突だけど。笑

 

  1. 環境そのものを変えて、自分の外側にあったものを吸収すること
  2. 他人の価値観に依存して、進んでいくこと
  3. 自分で価値づけをして、達成していくこと

 

1.環境そのものを変えて、自分の外側にあったものを吸収すること

これは、留学とか編入とかそんな類のこと。大学1年終わるときとかは、自分は環境変えないと成長できないんじゃないかとか思って、本気でtransfar考えてたときとかもあった気がする。それも立派な選択肢だと思うけど、その時の自分は、「環境を変えないと成長できない自分がいる」ってことを認めるようで、嫌だった。

 

2.他人の価値観に依存して、進んでいくこと

自分がいかに他人の価値観に依存して生きているかってことは近頃めちゃくちゃ痛感しているとこであります。でもこれって、世界が無数みたいなイメージで、人の数だけ価値観があるからいちいちそれに合わせて生きていくのって死ぬほど疲れる。よくやってたな自分って感じ。笑

 

3.自分で価値づけをして、進んでいくこと

今まさに挑戦中。自分の中で価値判断をして、チャレンジしてみるのかしてみないのか。挑戦している過程でほかの人に「意味なくね?」とか言われても、自分の中で価値判断を冷静にして、それでもやるべきだと決めたら進んでみる。元々ここは自分の中で一番弱いところで、さっきのメタ認知した後、どう生き方を変えてくかってところも一番鍵な気がしてる。

 

自分の状況をメタ認知して、いかに構造的に自分が「考えない」人間だったかとか「井の中の蛙」だったなとか思った後に、いかにそれを変えていけるかが大切なんだなって痛感してる。

英語喋れるようになるぞ、とか思って何回もチャレンジし「よう」としてるけど、一度も完璧に達成できたことはないし。それってもしかしたら自分の意志だけの問題じゃなくて、話せなくても生きていける、っていう構造の問題かもしれなくて。それに甘んじて生きていて、将来構造にまみれてたって気づくようなことがあったらめっちゃ怖くない?もしかしたらそれにすら気づかない可能性だってあるわけで。

 

今気づいたことってある意味幸せなのかも。自分に対して常に注意を払いながら、強い意志をもって生きていきたいなって思います。

 

言いたいこと、支離滅裂すぎてまとまらんかった。笑

自分をメタ認知→強い意志を持って進む→それを諦めそうになったときもしかしたらそれも構造にまみれている証拠なのかもってアラート鳴らしてみる→進む…

 

うーむ…

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